ムダな事は何もない
梁 丞佑 ヤン スンウー
私がなぜ写真と出会い写真家を志そうと思ったか。
いつも話している話は、『韓国でダラダラ過ごす日々に終止符を打とうと思ったからだ。』というものだ。ちょうどその頃父が亡くなりぼんやりとこのままではダメだと遅まきながら気づいたのだ。
私はいつも体験をしないと気づけない。
だから本当は何になっても良かったのだ。そこでなんとなく写真を選んだ。
そこにまつわるエピソードでいまだに近しい人にしか言ってない話があるのだが字数を稼ぐためにここで話そうかと思う。
なぜ話さなかったかというと、あまりにも嘘くさすぎて嘘つき呼ばわりされるのがいやで封印していたのだ。
思い切って話すとする。
兵役を終え、ダラダラと韓国で過ごしていた頃、紅葉の季節に友人達と山に遊びに行った。
韓国の山と言えばマッコリが定番なのだが、私はマッコリが嫌いなので飲まずに一人早めに下山し皆がおりてくるのをタバコを吸いながら待っていた。
なぜマッコリが嫌いかも一応話しておくと、
私は子供の頃、お使いでマッコリを買いに行かされた事がある。いつも大人たちが美味しそうに飲んでいるそれをどうしても味見してみたくなり飲んでしまった。
すると乳酸菌のせいか急にうんこがしたくなり、農道脇の茂みでしたのだが酔っていて立ち上がれない。しょうがなくお尻を出したままその上に倒れ込みそのまま寝てしまったようだ。そして大人が探しに来てくれた大体2時間後までうんこの上で眠っていたのだ。それでマッコリと言えばその記憶が蘇りあまり好きではないのだ。
僕が韓国人なので時々気を遣って「マッコリ美味しいですよねー!」と言ってくれる人がいるのだが、いつもリアクションに困り中途半端な返事と笑顔で答えている。
かなり脱線してしまったが元の話に戻ると、
一人待っているところに仙人ような見た目の老人が近づいてきて、タバコを分けてくれと言う。タバコをあげると今度は火をつけてくれと言う。タバコを吸う人はライターくらい持っているだろうと思いながらも、火をつけてあげた。
すると、「タバコ代の代わりにあなたの将来を見ましょうか?」と言ってきた。インチキくさいなと思いながらも暇だったので話に付き合った。そして仙人は私の顔を繁々と見つめて「将来あなたは教授か写真家になりますよ。あなたは生かされていますから命を大切にしなさい。」と言われたのだ。
そんな職業とは程遠く「やはりインチキか。何を言ってるんだ。」と思いながら聞きながしていた。しかし、確かに私は子供の頃から人の命を助けたり目の前で人が亡くなったりする事が普通の人に比べて多く、生かされていると言うのにはなんとなく同意したからか、ふと友達に話してみた。すると案の定、大爆笑され馬鹿にされた。それからと言うものその話は封印して妻ぐらいにしか言った事はない。一応写真家を名乗っている今となっては、更に嘘くささがまし益々話せないネタになっていたのだが話してみた。
今となってはその仙人にもう一度会いたい。多分そういう事も頭の片隅にあったから写真を選んだのかもしれないと今になって思う。こんな、まさに『当たるも八卦当たらぬも八卦』という感じで入った写真の世界で、思った以上にハマり苦労することになるとは当時の自分からは想像もできないことだった。
結局専門学校、大学、大学院まで通い写真を学んだ。
ここまで勉強すればなんとかなるだろうと思った。実際、在学中から賞などももらっていたのでまあ大丈夫だろうと思っていた。これがもし韓国の学校で韓国に住んでいたのなら学歴偏重社会なので実際なんとかなっていたと思う(笑)
しかし甘かった。ここは日本だ。
しかしそんな日本が好きだった。
理想と現実の間に立ちはだかる壁は予想以上に高かった。
大学を卒業したと同時に住むところがなくなり、縁あって池袋にあった古ぼけたアパート金城園に住むことになった。廊下で上を見上げると光が見える。オシャレじゃなくて。空が少し見えるような廊下の突き当たりのドアを開けると何もなくうっかりするとそのまま2階から落下する構造になっている謎の6畳一間風呂なし。もちろんお湯も出ない。コンロも無い。玄関は今時珍しく引き戸。一応鍵はあった。
酔って部屋に倒れる。
天井がぐるぐる回る。
隣の部屋から聞こえてくるトイレの流れる音。
向かい部屋の今にも死にそうな咳の音。
窓の外の猫の鳴き声。
屋根裏をネズミが走る音。
それを追いかける獣の足音。
そして俺の心臓の音。
結局僕は、ここに10年近く住んでいた。
そして様々なバイト遍歴が始まる。
写真を撮るためといえども先の見えない暮らしに、冷静になると辛いものがあった。分かってはいるけど押し潰されそうだった。
しかし冒頭でも言ったように、私は体験型の人間である。
頭で考えて動くということが、どうも苦手だ。
それを何となく気づいて写真を撮ってみたいと興味がそそられる場所や人の居そうなバイトを意識的に選ぶようになり、これで作品ができるのだと考えると少し楽になった。
撮りたい人、場所=知りたい人、場所という感じだろうか。
写真を通して世の中を知るということが私の方法なのかもしれない。
体験しながら撮影して、撮った写真を見てまとめながら理解したり改めて気づく事があったり。
もちろん完全にわかるわけなんてないのだが、1が3くらいにはなる。
洗濯工場、テキヤ、石屋、カーペット敷き、荷上げ、野菜の配達、車で道なき道をGPSをつけて走る仕事、油田探し、葬式屋、お茶畑、等々。
たくさんの人や場所に出会えた。
ここまでで話したように私の元来の性格や子供の頃のトラウマや経験が今の私の作品制作の糧になっているのだが、もう一つ今の自分に影響を与えている忘れられない苦い思い出がある。
小学校4年生の頃の事、大雪が降っていた。
学校から家まで歩いて1時間ほどなのだが、学校からの帰り道、雪が積った道で父とばったり会った。
父は学校に近い農協で働いていたのだ。
父は私が可哀想と思ったのかタクシーをひろってくれた。
タクシーなど滅多に乗らない頃の事、俺は嬉しくて、うきうきしながらタクシーの窓に息を吹きかけて落書きをしながら家に着くまでの時間を楽しんでいた。
ところが突然外の風景が回転した。
仰向けになった俺は、どうやら前座席と後部座席の間の空間に挟まっていたようだった。
雪道で滑って5メートルほど下の田んぼに車が落下したのだ。
恐る恐る体を動かしてみたが、どうやらすり傷一つないようだった。
そして次の瞬間目に飛び込んできたのは、顔が血だらけの運転手さん。
恐ろしくなって、「外に出ないと!」と思って割れたガラスの間から出ようとした。
その時、俺の目に飛び込んできたのは、血だらけの運転手さんの横に落ちている50円玉だ。
50円。
当時の自分にとっては大金だ。憧れのお菓子がたくさん買える。そう思った。
何だこれは。試されているのか?血だらけの顔を前にして相当迷った。相当。けど負けた。
今思うと他にやる事あるだろうと思うのだが、
俺は50円玉を右手で握って走った一度も振り返らずに走った。
村の入り口あたりで少し落ち着き、この50円でさて何を買おうか考えた。
答えは「ガムだ。」
当時ガムは貴重で、村の子供達は一度噛み始めると味がなくなっても捨てずに、夜寝る時は壁にくつけておいて朝起きてまたそれを噛んでいたくらい。
俺は六個入りのガムを二つ買って一気に口に入れた。
甘い、甘い、本当に甘かった。
最後はアゴが痛くて噛めなくなった。
幸せだった。
このまま家に帰ると、何かあったと感づかれるから家に入る前に木につけておこう。と思いながら村に入って来た。
家までの道すがら、村の人たちが集まって、あの事故の話をしていた。俺は急に怖くなった。50円玉を盗んだ事がばれるのが、心配で堪らなくなってきた。夜、父が帰ってきた。「昼間タクシー事故があってそこに乗っていた子供が消えたらしいのだけど、まさかお前じゃないよね?!」
そして私は、もちろん(と言うべきか…)今思うと、怪しいくらいに元気に「僕じゃないよ!」と答えた。
村人があの事故の話をする度に私は怖くなった。
そして、もう二度と盗みはしないと肝に銘じた。
今でもあの時のガムの甘さと苦い思いは忘れられない。
だから、写真においても嘘をつけない。
こっそりできない。
そして血だらけの人は助けます(笑)
時に、自分が撮影したものの説明をありのままおこなうと、信じてもらえなかったり、がっかりされたりすることもある。そこに多くの人がそう見えるだろう嘘のキャプションをつけるのは簡単だ。そして写真をよりドラマチックに、過激に、そこに重大な問題があるように、見せられたりもする。だけどその誘惑に負けると、自分の中で重大なトラウマの上塗りになると僕自身が困るの。という、ごく個人的な問題でそれはできないのだ。
散漫な文章になりうまく伝わったかわからないのだが、
言いたかった事は…
作品の影響で僕は遊び人だとか怖い人だと思われがちだが、意外とピュアなのだ。
ということだ。
梁 丞佑(ヤン スンウー)
1996年 来日
2000年日本写真芸術専門学校卒業
2004年東京工芸大学 芸術学部 写真学科卒業
2006年同大 大学院 芸術学研究科メディアアート写真領域博士前期課程修了
2016年出版の「新宿迷子」で第36回 土門拳賞受賞
ドキュメンタリー写真、スナップ写真をメインに作品を制作し定期的に発表
最新写真集「荷物」が2023年11月にZen Foto Galleryより発刊