まず、MACRO 70mmF2.8 EX DG まで遡ります。
解説と作例写真:小林みのる
今から12年前の2006年7月、MACRO 70mm F2.8 EX DGが発売されました。70mmという変わった焦点距離だな、という以外は特に変わったスペックは無く、地味な登場だったかもしれません。しかし手にしてその画質を見た人は一様にそのシャープさとヌケの良さに驚きました。レンズ全体がジジジッとモーターで動く前群移動式のフォーカス方式を取り、鏡筒もフードもメタル。ちょっと古い仕様と思われましたがそれは全て画質最優先設計の結果だったのです。誰が言い出したのか“カミソリマクロ”と呼ばれるようになりました。発売本数は決して多くはなかったと思いますが、ガラス素材の提供終了に伴い生産終了になると、その稀少性も手伝って噂が噂を呼び、静かで熱いラブコールが沸き上がっていました。
そして70mm F2.8 DG MACRO | Art。満を持してArtラインで復活です。
新しい“カミソリマクロ“庭で、野山で、試し剃り。
せっかくの切れ味のレンズですので受け手もキレキレである必要があります。ここは迷うことなくSIGMA sd Quattro Hに装着です。ボディから突き出したメインスイッチ部の筒と本レンズは同径になっていて直線的なデザインと相まってとてもスッキリとクールなデザインにまとまっています。重量515g、フィルター径49mmは同社から立て続けに繰り出される超ド級大口径Artレンズ群の中にあって拍子抜けするようなスリムさと軽さですが、このコンパクトさに関しても様々な努力と工夫が凝らされているようです。それは後ほどのインタビューでうかがっていきましょう。
ピントもシュッ、クククッと小気味好く合います。ピントリングを回せばそのままダイレクト マニュアル フォーカスが可能。ピントリングを速く回すと移動量が大きく、ゆっくり回すと少しずつ微調整ができます。
してその写りは?!“二代目カミソリマクロ”に恥じぬ剃れ味と柔らかなボケ、正確でコクのある発色。期待通りです。
それぞれのサムネールをクリックして大きな画面でご覧ください。
70mmという焦点距離。
私は料理やパッケージなどの商品撮影にはずっとこのレンズをメインで使っています。35mmフルサイズで50mmだと遠近感が強すぎて手前のお皿が歪んでしまうし、100mmだと前後が窮屈に詰め込まれ、距離感が弱く退屈な絵になってしまいます。それとなにより重要な点がカメラと撮影対象(ブツ)との距離にあります。50mmだと近すぎてバウンズ板や支柱などの仕掛けが入れにくく、100mmだと遠すぎてカメラを覗きながらブツに手が届かないので微妙な位置修正やライトや仕掛けの調整ができません。カメラを離れて調整、戻って覗いてまたやり直し…という作業はフィールドカメラマンに匹敵する体力の消耗、特に腰への負担がとても大きいのです。
70mmは椅子に座ってファインダーを覗き手を伸ばすと丁度ブツに触れられる距離です。ブツを撮影セットに入れてファインダーを覗きながら調整、撮影、確認、捌けさせて次のブツ…という一連の作業が椅子に座ったままでできると効率とクオリティーが格段に上がります。撮影時間の短縮にもつながり、それは即コストに反映します。ビジネス的にもとても重要なパートナーと言えます。
シグマ本社でいろいろ聞いてきました。
JPSの小林みのる(以降JPSみ)がシグマ本社に登山していろいろマニアックなお話に時間を忘れて楽しんできました。
おなじみマーケティング部の桑山さん左(以降桑)と期待のホープ、開発の仲本さん右(以降仲)です。
JPSみ:待ってました!待ちましたよぉ。まずは70mm F2.8 DG MACRO | Art(以降70mmArt)のコンセプトからお伺いしたいのですが。
桑:Artラインにマクロレンズをラインナップしていくのは当然の流れだったわけですが、とりわけその中でも高画質に拘り、カミソリと呼ばれたMACRO 70mm F2.8 EX DG(以降70mmEX)の後継機種が相応しいのではないか、となりました。
JPSみ:70mmという焦点距離もそのまま引き継いで…
桑:これは70mmEXの企画段階まで遡りますが、APS-Cサイズのセンサーのカメラでは70mmは、35mm換算でちょうど105mmになりますし、もちろんフルサイズでも中望遠の扱いやすい焦点距離です。現在105mm、150mm、180mmがラインナップされているので、無くなってしまった70mmをもう一度復活させようという事にしました。
JPSみ: 70mmEXの高画質に磨きをかけて。
仲:はい。70mmEXが非常に高い評価を頂いておりましたので、そこは最低ラインとして落とす訳にはいかないというプレッシャーの中での設計でしたね。
基本的な所は踏襲しながらレンズの追加や動かし方を変えました。以前よりも使用できるガラスの種類が増えていますし、非球面レンズの製造技術が向上しています。70mmArtには非球面レンズ2枚、FLDガラス2枚、SLDガラス2枚を使っています。
黄色:FLDガラス 青:SLDガラス 赤:非球面レンズ
JPSみ:ほぉー!レンズの動かし方も変わったのですね。70mmEXは前群がガッ!ガッ!ガッ!って動いていましたけど。
仲:70mmArtは3つにグループを分けて、一つは固定、二つのグループを距離によって最適な配置になるよう別々な動き方をしています。動きが違うものが二つある、フローティング・フォーカスという仕組みです。これによって距離によって異なる収差の変動を抑え込むことができます。
JPSみ:あとはやはり前玉がニューッと伸びてくるこのスタイルがしっかり踏襲されていますね。
仲:そうですね。マクロレンズとしては全体を繰り出してくるという作りは自然な形です。インナーフォーカスは近くを撮る時でもレンズの全長が変わらないという利点がある一方で、距離によって収差の変動がおこりやすいのと焦点距離が変わってしまう(近づくほど広角に)という二つの弱点があります。これを克服するためにはもっと大きく、太くなってしまいます。
JPSみ:なるほど。今回も70mmEX同様、画質最優先のコンセプトから前群繰り出しなのですね。
JPSみ:70mmEXも優秀でしたが逆光性能が更に向上した感がありますが?
桑:70mmEXの時もスーパーマルチレイヤーコートの採用で逆光性能はかなり優秀でしたね。
仲:設計段階でシミュレーションできるので、曲率(レンズの丸み)やレンズ配置によってゴーストを抑え込むことができます。しかし、このゴーストばかりを追っていくと今度は収差が出やすくなったり、どうしてもトレードオフの部分があるんです。バランスですね。
JPSみ:逆光といえば。みんな大好き“玉ボケちゃん”ですね。
仲:口径食について見てみると周辺部分の削れ方は70mmEXよりはやや目立っているというのが正直な所ですが絞りの形をより真円に近づけることができたので開放以外での玉ボケは綺麗になっています。
桑:70mmEXの絞りは若干ですが角が残っていました。70mmArtは絞り込んでもほぼ真円です。
JPSみ:マクロレンズだからちょっと近寄って撮るとすぐボケ量は大きくなりますから開けてもF4ぐらいですかねー。まぁ開放からいきなりキレッキレのレンズなので開放で撮りたい気持ちは分かるのですが、周辺の貝殻形の玉ボケが気になったら3.2とか3.5とかチョビッと絞ればクルッと丸くできますね。
JPSみ:ブツ撮りの時に11とか16とか結構絞って撮ることがあるのですが、その時の回析現象って解消されないのでしょうか?
仲:回析現象というのは完全に物理現象ですので光学設計で抑えられるものではありません。強いて言えば絞りの形状がいびつでなく真円になったので “キレイな崩れ方”になっているとは思いますね。ちょっと言い方はおかしいんですけど。
JPSみ:とすると、やっぱり美味しい所は4から絞って5.6、8ぐらいまでですかね。あとはピントの合っている範囲の広さを取るか、ピント面の解像感を優先させるのか、という所ですね。
JPSみ:次に“バイワイヤ方式”についての解説をお願いできますか?
仲:仕組みとしてはマニュアル フォーカス リングの回転を検知してモーターに伝え、レンズを動かしているというのが“バイワイヤ方式”になります。フォーカスリングの回転から直接メカ的にレンズを動かすのではなく、電子的に駆動させています。
桑:dp Quattroのレンズはバイワイヤ方式ですね。
JPSみ:なるほど。いわゆる“クルクルレンズ”ってやつですね。グリスたっぷりのリングをニュルニュルっと回してピントを合わせていく感触も捨て難いんですけどね。
仲:この方式を採用した目的はフルタイム・マニュアル・フォーカスですね。それと二つのレンズ群を距離に合わせて複雑に動かしていく、という二つを達成するためです。この二つを同時に行うためにはメカの構造がどんどん複雑になって太くなってしまいます。鏡筒のスリムさはバイワイヤ方式のおかげですね。
JPSみ:あと回転を速くすると大きく、ゆっくり回すと微妙に、というピント位置の動きがすごく上手い具合にできてるなと思います。使い始めはちょっと慣れが必要かなとも感じましたが。この辺の挙動のさじ加減は別売りのUSB DOCKで調整できますか?
桑:申し訳ございません。それはできません。
JPSみ:ソニー用Eマウントとキャノン用EFマウントではボディー内の各種収差補正機能に完全対応していますね。
桑:はい。このメリットは大きいですね。それに、以前キヤノンさんの一部のボディでレンズ光学補正を「する」にして撮影をしたときに正常でない画像や動作エラーが発生したりすることがありましたが、そのような事を防ぐことができます。
JPSみ:収差が補正できるといっても持っている基本性能が高いのでそれに頼る必要性って無いですよね?
仲:特にこのレンズに関して言えば収差補正に頼って何か、というのは無いですね。
JPSみ:これはものすごーく高いレベルでの話ですよね。
仲:そうですね。特にこのレンズに関しては倍率色収差などはほとんど出ていないはずですので。
桑:カメラの収差補正機能に頼るという前提はこのレンズにはありません。カメラに搭載の収差補正を使用するといった前提での設計はミラーレス用ContemporaryラインのDNシリーズですね。ディストーションを光学上で補正しようとするとレンズが大きくなってしまうため、カメラ補正機能を使用することにしています。ですので今回70mmArtが二社のボディー内補正機能に対応したといってもニュアンスが違いますね。”Artラインはあくまで光学性能でベストを狙う”というコンセプトですので。
JPSみ:マクロフラッシュの取り付けに色々工夫が為されているという事ですが。
仲:フード取付け部の内側ににネジが切ってあり、ここにアダプターリングを付けてフラッシュを取り付けるといった構造ですね。このアダプターリングの径72mmというのが肝で、他社の色々なアクセサリーが着けられるようになっています。
JPSみ:ではこのアダプターリングから様々なバリエーションと可能性が広がっていくネジ径なのですね。ユーザーの皆さんの様々なアイデアで色々な組み合わせやアイテムを作って欲しいですね。糸崎公朗さんとかに。
仲:あとはテレコンにも対応させましたので最大で2:1(2倍)の高倍率マクロにもなります。
JPSみ:システマチックな広がりも期待できる構成になっているのですね。
JPSみ:あとは…ニコンマウントについて、なんですけど…
桑:悩ましいところではあるのですが…。70mmArtの前群繰り出しのフォーカシング方式と、バイワイヤ方式の組み合わせにおいて、ニコンさんのAF-Pレンズとの使い勝手に懸念があるため、開発を保留しています。
JPSみ:なるほど。D850に70mmArtで撮りたい人がいっぱいいると思いますが…。
* * *
JPSみ:繰り返しになりますが70mmEXを超えていくために苦労した点はどこでしょうか?一つ一つ聞いてきた通りなのでしょうけれど特に、という所はありましたか?
仲:70mmEXの評判がとても良かったのでそのプレッシャーが大きかったですね。一つ一つを検証していって、足りていない部分の性能を今の技術と精度で修正して向上させていく、という進め方で取り組んできました。
特に軸上色収差が今のレンズからすると少し大きめかな、という所がありましたので特に重点的に補正しました。
桑:当時の70mmEXのキャッチコピーも“軸上色収差を少なくしました”というものでした。当時もその数値は誇れるものだったのですが、この70mmArtはそのレベルを大きく超えています。
JPSみ:メーカー純正の100mmマクロから70mmEXに付け替えた時の驚きは忘れられませんね。“掃除して透明になったメガネ”ぐらいの差がありました。絞り値ごとのレンズ性能をグラフに表したら、普通のレンズは開放から向上して行って5.6、8あたりでピークになってあとは回析現象で落ちていく、という山なりの曲線になりますが70mmEXはいきなり開放で98点とか99点をバーン!と叩き出してあとずーっと落ちる事なく横に一直線という凄いグラフでしたよね。この70mmArtもその路線はそのまま継承しているのですか?
仲:そうですね。基本ラインは一緒です。ただわずかに収差を残しているので、ほんの少し絞っていただくと性能は上がります。
JPSみ:いいですね。シグマのそのトンガリ具合が好きなんですよね。
桑:せっかく開放F値を出しているのでやはり開放から安心して使ってもらえるレンズ、というのを目指しています。他の明るいレンズもそうですけれど。
JPSみ:段々好き勝手な質問しちゃうんですけど、これを開放F値2とか1.8とかにしていったらどんなになっちゃうんですか?
仲:相当大変になっていきますね。実は一時期考えた事もあったのですが70mmEXを超える性能で尚且つ明るく、となると相当大きくなってしまいます。それと、同じF値で撮影した時に開放F値が明るいレンズほど絞り込む必要があるので、絞りの形状が角ばりやすいのです。
桑:通常の撮影距離では、F値の明さにメリットを感じますが、マクロ域では開放はあまり使われないのではと考えています。
JPSみ:マクロレンズのマクロ域でそんな明るい開放F値に何の意味があるのか?という”そもそも”の所ですよね。そんなボケてどうする?って事ですね。マクロ域では絞ってシャープに使いますものね。じゃぁ中距離から先ではどうなんですか?ってなったら「普通の明るいレンズに交換してください」ってだけの話ですよね。85mmF1.4とか話題のボケマスター105mmF1.4とか。いくらでもボケ倒して下さいと。
仲:だったら同じ開放F値、大きさでどこまで描写性能を向上できるのかを追求していこう、となった訳です。
JPSみ:このレンズ、どんな方に使って欲しいでしょうか?
仲:前のレンズのファンだった人やとにかく高解像度のレンズが欲しいマニアックな方ばかりでなく、キットレンズの次に買う一本として気軽に選んで欲しいですね。そのために軽く、細く、そしてお求め安い価格にいたしました。
JPSみ:初心者の方へもオススメですよね。最近クローズアップで撮る機会は増えていますしね。ニャンコとかオシャレカフェのラテアートとか。インスタ映え間違いなしですよね。
それと“単焦点レンズを使いこなすと写真が上手になる”って思っている人はこのレンズ使うと確実に上手になれますよね。だってどのレンズよりも綺麗に写るんですから。って褒めすぎですかね。
JPSみ:それと、この価格設定もすごく戦略的というか絶妙なイイ所を突いているというか…
仲:ありがとうございます。学生さんが頑張ってアルバイトして買える金額、という事を思い描いていました。レンズ交換の楽しさを知る一本目としてラインナップに加えて欲しいですね。そしてここからArtラインの明るくでっかいレンズに…という道筋を作っていきたいですね。
JPSみ:まずはここから”飛び込め!!沼”と。
桑:そしてFoveonユーザーの方や高画素一眼をお使いの方々にも充分納得して頂ける性能をしっかり持ち合わせていますのでカメラをお持ちの方全て、という感じですね。
JPSみ:総員沼!!と。
撮って聞いてまた撮って、まとめ。
“カミソリ”という最高の褒め言葉のあだ名をつけられたMACRO 70mm F2.8 EX DG。シグマもそれに自信を持って受けて応え、その後継機、70mm F2.8 DG MACRO | Artを生み出しました。
散歩で、仕事で、海に、山に、街に。”70マクロ縛り”と言えるほど着けっ放しで撮りました。モニターに映し出された画像の解像感の高さ、立体感、色の乗り、毎回ワクワクさせられます。シグマの桑山氏、仲本氏からお話を伺った後はその内容を反芻するようにシャッターを切りました。
全てがこの高画質のために研ぎ澄まされた剃り味と実感できます。
仲本氏のおっしゃる通り、標準キットズームの次をお考えの方にお薦めします。
なぜならピント合わせとブレにシビアになれるからです。そして”ピントが合っている”っていうのはこういう事、というご自身の基準になります。
もちろん、ベテランの方、マニアもきっと虜になるでしょう。
多分、お持ちのどの高価なレンズよりもシャープなはずですから。
それが5万円代で購入できるんです。
最後にピクセル等倍の部分カットをどうぞ。どのカットのどの部分かを探してみてください。
株式会社シグマ webサイトhttps://www.sigma-global.com/jp/
撮影協力:天然酵母の石窯パン天豆 箱根のレストラン ロア
取材、文、作例写真:小林みのる