震災があったあの日、カメラを持って家を出たのは何も特別な写真を撮ろうと思ったわけではありません。私自身、1960年のチリ地震の際、津波が押し寄せる前には一度水が引き、海底があらわになるのを目にした経験があったので、今回もその様子を記録に残しておこうと思ったに過ぎないのです。そこで妻を避難所に向かわせ、私は漁港を見下ろす高台を目指していたわけですが、写真はその高台に向かう途中で撮影したものです。
海岸の方に目をやると、津波が防潮堤を勢いよく乗り越え、道路をまるで水路であるかのように流れていく。海岸から真っ直ぐ集落を抜ける道を本流とすると、私が撮影した津波は横道に逸れた支流という格好になります。これは大変な水の量だと思いながらも、過去の記録から考えて、これ以上は水が流れ込んでくることはないだろうと私は勝手に決めつけ、自分でも驚くほど冷静に最初のシャッターを切りました。
ところが、あれよあれよと水かさが増していく。次のシャッターを切る頃には、津波は50メートル先まで押し寄せていました。ここでようやく、これはただ事ではないと思い始め、後ずさりするようにして高台へと向かった瞬間、再び大きな余震が起きました。電柱が倒れんばかりに揺れ出し、切れた電線が体をかすめるにいたって、私は身の危険を感じて急いで高台へと避難しました。しかし、そこから見た光景には、声も出ませんでした。
高台にいたのは顔見知りの人たちが20〜30人ほど。けれども誰一人として声を発する者はなく、家や車が、そして自分たちの集落が、津波に押し流されていく様をただ呆然と眺めていました。今思えば、誰もが人智を越える出来事を前にして、現実を容易には理解できなかったのかも知れません。津波の写真を撮った私自身、思考が追いつかず一種の麻痺状態にあったので、シャッターを切ることができたのではないかと考えるほどです。それというのも1か月後、息子に頼んでプリントアウトしてもらった写真を見て、本来なら私はこんな写真を撮っている場合ではなかったのだと、しみじみ思ったからです。
実は津波の写真を撮ったのを最後に、私はしばらくカメラを持つ気にはなれませんでした。慣れ親しんだ故郷はすっかり姿を変え、私たち家族も家と家財を失い、目にする現実すべてに心が押しつぶされそうだったからです。だから正直に言うと、津波の写真も誰にも見せたくはありませんでした。そこに写し出されている家も車も畑も、そのすべてが私の知り合いのものばかり。そもそも私は報道のカメラマンではないですし、そこに写っている被害を受けた物の持ち主である彼らの気持ちを思えば、私が撮った写真など公開できるはずもありません。
しかし、そんな私を後押ししたのが、他ならぬ地域の人たちでした。「この現実こそ、記録として後世に伝えるべきだ」「この写真が、将来の命を救うことになる」。こうした言葉を聞くうちに、私は写真の力を知りました。写真は時が経つほどに、その価値が高まることを教えてもらいました。そして再び、写真を撮り始めようとも思うようになったのです。
家を失い、老後の生活もままならぬ状態に、私も落ち込まないと言えば嘘になります。それでも、やはり自分に負けてはいけないと思うのです。地域の人たちも手に手を携え復興に向けて頑張っているし、ボランティアの方々をはじめ、多くの人たちに助けられています。それに私の撮った写真を通じて、数え切れないほどの出会いがありました。震災により失ったものも多いですが、得たものも多い。だからこそモチベーションを高く持ち、みんなで力を合わせて、私もこの困難を乗り越えていきたいと思っています。
西條 嘉吉 (さいじょう・かきち)
1943年生まれ。元・陸前高田市役所職員。長男の誕生を機に、その成長ぶりをおさめようとカメラを購入し、わが子の姿や故郷の景色を撮り続けてきた。幸いにも今回の震災で家族を失うことはなかったが、自宅は解体を余儀なくされ、現在は母親を市内の施設に預け、妻とともに息子が暮らす盛岡市で避難生活を送る。